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キングダムの六大将軍 白起(はくき)は最も強く残忍だった史実

Last updated on 2020年7月2日

キングダムの作中で時々回想される政の父であった昭襄王とその配下の六大将軍。

人気度で言えば「コココココ…」でお馴染みの王騎将軍だと思いますが、史実では昭襄王を支えた大将軍の中で最も強かったとされるのは白起でした。

古代中国の武将や将軍にはたびたび「残虐性」にまつわるエピソードが伝わっていますが、「白起将軍」は正直に言って別格です。

キングダムの作中では、この白起将軍の行為によって趙の人間が秦国に恨みを持つエピソードとして書かれていますが…。

それもそのはず。

白起将軍ほど、同時代に敵兵を殺害した将軍は存在しなかったのです。

生涯殺し続けた知将 白起将軍

画像引用元:白起

白起の人生は文字通り残虐な将軍として、また戦いにおいて強すぎることから内外からも尊敬と畏怖を集めた人物であったとされています。

史記などに残された記録は時代的な問題もあり、キングダムでは多くの脚色がなされていますが、白起将軍のエピソードについては確認出来るものだけでも100万人近い敵兵、及び投降兵や捕虜を殺害してきたことが記されているのです。

現在の中国では人口増加から様々な問題が起こっていますが、古代中国では人口減少が国家の運営に関わるほどの問題になっていました。

戦争で駆り出される人間が減ることは、それがそのまま農民の減少などにも繋がったことや、不作などによる食料危機によって兵士となる農民の生活は全く安定しなかったと言われています。

この問題を解決したのは、後の三国志で魏の王となった曹操の屯田制度であったとされていますが、始皇帝の前時代にはまだそのような施策は行われていませんでした。

では、白起将軍は一体どのような戦争行為を行なってきたのか?

以下で順番に解説していきます。

24万人を斬首し、数万人を生き埋めにした「伊闕(いけつ)の戦い」

白起将軍が最初に多くの敵兵を殺害したと言われているのは、史記「白起・王翦列伝」に書かれている伊闕の戦いです。

この戦いは、秦国が昭襄王(始皇帝の前代)の時代に行われた戦いであり、韓と魏を相手にした戦争でした。

この戦争において白起は、敵兵24万人を斬首、捕虜になった数万人を生き埋めに処したと言われています。

歴史の表舞台に出てきて、いきなり少なくとも25万人以上を処刑した白起は、この後の戦いでも数多くの断罪を行います。

華陽(かよう)の戦いで13万人を斬首する

華陽の戦いは紀元前273年~紀元前275頃に起こった戦争で、この時の相手も魏でした。

この戦争以前にも楚や魏を相手に活躍していた白起でしたが、華陽の戦いでは13万人を斬首します。

時と場合を選んでいるようには見えますが、それを加味してもこの時代においてそこまでの処置を行なった将軍は、後にも先にも白起ただ1人だけでした。

また翌年、趙の将軍と戦ったときには2万人とも言われる士卒を黄河に沈めたそうです。

韓の陘城を攻めて5万人を斬首

紀元前265~264年、再び韓と戦った白起は、この城攻めにおいても5万人を殺害、斬首刑にしたと言われています。

そして、この後。

45万人の投降兵を生き埋めにした長平の戦い

紀元前260年頃にキングダムでも回想で描かれた長平の戦いにおいて、兵糧攻めを行なった白起将軍は投降兵45万人とも言われる数の人間を全て生き埋めにしたと言われています(生き埋めにした数は諸説あり、20万人~45万人)この時、少年兵であった240人だけは見逃されたそうです。

白起将軍が、戦争において殺害した人数はあの項羽よりも多いと言われており、古代中国史上、もっとも苛烈かつ残虐性を持った将軍であったことは間違いないでしょう。

しかし、ここまで強かった白起将軍の最後は実は非常に人間らしさを感じさせるものでした。

虐殺王 白起将軍の最後

白起将軍は武において昭襄王を支えた第一人者でしたが、この時、秦国の丞相であった范雎(はんしょ)によって危険視され昭襄王に自害を言い渡されます。

あまりにも勝ちすぎた白起将軍は敵ではなく、味方であった筈の秦国の丞相によって貶められたのです。

当初は納得のいかなかった死罪の言い渡しでしたが、一説には白起将自身が「長平の戦いで40万人以上を生き埋めにした時点で、自分が生きて良い人間ではない」と悟ったとも言われています。

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