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魏の楽進が史実の三国志ではヤバ過ぎる活躍と功績を残していた

Last updated on 2020年7月1日

皆さんは三国志の魏の武将で「強い!」とイメージする人物はいるでしょうか?

張遼や徐晃、夏侯惇、曹仁などなど、思いつく武将を数えればきりがありませんが、すぐに楽進の名前を出す人は少ないかも知れません。

実は史実の魏の武将で非常に強かったとされる人物には楽進が挙げられます。

物語性を重視した結果、三国志演義ではあまり活躍する場面の少ない楽進ですが、曹操の配下にいた数多くの将軍たちの中での序列はなんと張遼に次ぐ第2位です。

今回は、あまり知られていない魏の楽進の功績について紹介していきます。

あまりにも多くの功績を残した楽進

楽進の人生を日本の武将に例えて言うと、少し豊臣秀吉と似ているところがあります。違いは亡くなるまで自分が領主になろうとはしなかった所でしょうか(笑)

楽進が曹操軍に参加したのはかなり初期の頃で、反董卓連合の兵を募集している時でした。

しかし、生来小柄な体躯だった楽進は兵士として採用されずに軍の記録係として採用されます。

楽進は兵士として参加するはずが、戦場に立つことさえも許されなかったのです。

その後、一度故郷に帰った楽進は1000人の兵士を連れて曹操の元へ戻りました。これを機に曹操から信頼を得て武将として活躍することになります。

呂布軍相手に一番乗りで切り込む楽進

正史の三国志であっても、劉備や曹操がもっとも手こずった相手が、三国志最強の武将と呼ばれる呂布でした。

実際に、曹操も対呂布戦においては敗戦経験もあり、とにかくこの呂布を何とかすることが先決事項になっていました。

最初に呂布と曹操が対峙したのは濮陽戦でしたが、ここですぐに一番乗りでの功績をあげます。

続いて呂布を担いだ広陵太守の張超戦、袁術の配下の武将であった橋ズイ戦の3連戦において、全て1番乗りの功績をあげます。

これらの功績が認められて、楽進は何もなかった書記係から一気に爵位を持つ将軍になりました。

また、下邳の呂布包囲戦でも敵将を破ったのが198年、翌年の小沛にいた劉備への攻撃にも従軍して負け知らずのまま武官の称号である校尉に取り立てられます。

官渡の戦いでも暴れまわった楽進

画像引用元:官渡の戦い

官渡の戦いは、当時最大の勢力を有していた北部の袁紹と霊帝を庇護して中国の中心地にいた曹操との歴史的な決戦の1つです。

日本史で言えば、ある意味「関ヶ原合戦」に近いところがあります。それほどまでに大きな転機をもたらした歴史的な戦いの1つでした。

ちなみに・・・三国志演義の主人公である劉備は、この時落ち延びて袁紹軍に、関羽は一時的に投降して曹操軍にいました。

逸話として残っているものは袁紹軍の強力な武将であった顔良と文醜があっけなく関羽に倒されたというイメージですが、史実では楽進、そして楽進と並んで讃えられた于禁が大活躍した戦いです。

楽進と于禁はそれぞれが5000の兵力を率いて袁紹の本陣を襲い、さらに袁紹軍の食料基地であった烏巣を攻略します。

もちろん、他の将軍も奮戦した大決戦でしたが、官渡の戦いにおいて急所を突いたのは楽進と于禁だとも言われているのです。

また、官渡の戦いが終わった後には、袁紹の息子達も討伐してしまいます。

重要な戦いでは全部活躍してきた楽進

官渡の戦いは非常に大きな戦いでしたが、これ以降にも大きな戦は起こっています。

特に顕著なものは、曹操が非常に苦戦していた異民族である鳥丸族の討伐戦です。

中国内部の争いをしながらモンゴル方面からは鳥丸族が度々反乱を興していたため、曹操はこれを制圧する必要があったのです。

この時、魏の配下であった高幹がスキを見て反乱をしますが、これを抑えたのも楽進でした。

さらにさらに楽進は海賊とも戦っており、もはや重要な戦には欠かせない存在となっていました。

この後、赤壁の戦いで大敗北をした魏軍は荊州から撤退するものの、楽進を襄陽に置いて守備の要とします。

関羽にも勝った楽進

208年に起こった赤壁の戦いでの敗北の後、襄陽に残った楽進は追撃してきた関羽を撤退させています。

また、この時劉備の軍が各地に置いた武将も多くが楽進に破られており、攻めだけではなく守備にも優れた武将であったことが分かっています。

三国志の先主伝に語られている所では

212年に劉備が劉璋に告げたとされる言葉に

「関羽は青泥で楽進と対峙しており、自らが救援にいかねば楽進が大勝し、張魯を上回る脅威になる」

引用元:楽進

上記のような言葉があります。如何に劉備が楽進を恐れていたのかが分かる言葉です。

さらに215年、合肥の戦いにおいても突撃する張遼と李典の後詰めとして合肥城に残り、窮地を脱しています。

多くの功績を残した楽進は、于禁と並んで右将軍に登りつめて、218年に亡くなりました。

最初はただの書記係であった楽進でしたが、数多くの功績を積み重ねた結果、最後には大将軍となったのです。

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