Last updated on 2020年7月1日
ナチス・ドイツによる人体実験は当時のドイツを代表する天才科学者や医学博士などが提唱し、ヒムラーやヒトラーなどの認可を受けて実施してきた例が数多く存在する。
因果応報という言葉があるが、この非人道的な人体実験を指導してきた天才的な科学者たちの中にも、終戦を待たずに処刑されたり、戦後のニュルンベルク裁判において断罪されたのである。
今回はそんな悲惨な末路を辿ったナチスの天才科学者たちを紹介していこうと思う。
公開日:2019年10月9日 更新日:2020年1月31日
ジクムント・ラッシャー博士
画像引用元:ダッハウ強制収容所
ジクムント・ラッシャーはナチスが作った強制収容所の中でも最も古い建物であるダッハウ強制収容所で数々の凶行を続けてきた人物である。
空軍軍医大尉の地位を利用して、人体実験の中でも特に非道と言われる「低圧・酸欠による人体実験」や「低体温冷却状態からの蘇生実験」などを立案、主導してきた人物であり、当初はヒムラーなど高官からの信頼も厚かった。
ジクムントの実験によって酸欠や凍死が原因となり亡くなった囚人は合計で150人以上とも言われており、その悪名は現在にも語られている。
しかし、子供のいなかったラッシャーは誘拐と金銭による人身売買で他人の子を自分の子として育ててきた事実がヒムラーに知られることになり、自らが人体実験をしていたダッハウ強制収容所内で処刑される。
アウグスト・ヒルト博士
画像引用元:アウグスト・ヒルト
当時、 ストラスブール国立大学で教授を勤めていたアウグスト・ヒルト博士もその1人である。
解剖学を専攻していたヒルトはSSにも所属しており、ダッハウ強制収容所にてユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校といった当時の思想で排除すべき人種であるとされた人々の頭蓋骨を集めるという奇行をおこなった。
さらにアウシュビッツ強制収容所では、100名以上の囚人をガスで虐殺をさせており、これらの遺体を使って解剖などの人体実験を行っている。
その最後は、ナチス・ドイツが敗戦した後、自殺という形で終わりを迎えた。
ヨーゼフ・メンゲレ博士
画像引用元:ヨーゼフ・メンゲレ
アウシュビッツ強制収容所での双子実験などで一般的には一番知名度の高いであろうヨーゼフ・メンゲレ博士。
もちろん、知名度が高いということはそれだけの悪行を行ってきたということである。
ヨーゼフ・メンゲレは人工的なシャム双生児を生み出す実験などで3000対とも言われた被験者の子供達のほとんどを死亡させたり、アウシュビッツではガス室送りや人体実験用の「人選別」をしていたと言われており、収容所に送られた人々から恐れられた通称「死の天使」である。
ヨーゼフ・メンゲレは被験者を「モルモット」と呼び、趣味のクラシックを鼻歌で歌いながら次々と人体実験をしていったと言われている。
戦後、連合国の目を抜けて南米のブラジルで海水浴をしていた時に心臓発作を起こして死亡。
ナチスの残党狩りで有名なサイモン・ヴィーゼンタールもついにヨーゼフ・メンゲレを発見することは出来なかった。
この悪名高いヨーゼフ・メンゲレはいくつかの映画などにも取り上げられている。
ヴィクトル・ブラック博士
選民思想の究極とも言える強制的な断種実験を行なっていた帝国公衆衛生局所属のヴィクトル・ブラック博士。
彼の実験は放射線による強制的な不妊化と男性への睾丸摘出など、およそ考えたくもないおぞましいものであった。
性的に不能になった後に強制労働をさせながら働けなくなった被験者も数多く殺害している。この非人道的な実験の結果、戦後の裁判によって弁解したが、死刑となっている。
おぞましい人体実験をおこなった科学者達の末路
ここまで紹介してきたように、自殺、死刑などで最後を迎えた科学者も多かった一方で、当時のナチス・ドイツの科学力を取り込んだ国があった。
それが、アメリカ合衆国である。
全世界をもって「悪」と断罪したはずのナチス・ドイツという存在を技術力として取り込んだのが、通称ペーパークリップ作戦と呼ばれるものであった。
詳しくは以下の記事をご覧頂きたい。
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