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【日ユ同祖論】日本古代史のタブーと渡来人がユダヤ人であった可能性

Last updated on 2020年6月28日

日本の古代史には、今もってタブー視されており調査そのものが現実的に難しい時代があると言われている。

それは卑弥呼が統治していた邪馬台国があったとされている、およそ3世紀から4世紀にかけての日本統治の政権交代時期であり、大和朝廷の成り立ちがあったとされている時代であり、弥生文化が縄文文化に移り変わった頃だ。

邪馬台国の存在が認められたのは、そもそも中国の「魏志倭人伝」であり、当時は倭国の王として卑弥呼が伝わっている。

しかし、3世紀の末に卑弥呼達を中心とした倭国の新しい政権が誕生した。

この政権こそが、その後大きな文化的存在感を見せる大和朝廷である。

大きな文化的存在感というのは”おそらく存在した””と言われている、古代日本の民族(弥生)と鉄などを扱う渡来民族(縄文)との争い、そして、前方後円墳などの墓や埋葬品に見られる文明の入れ替わりである。

しかし、皇室にも関わるこの重大な遺跡は調査が許可されておらず、今も研究そのものが出来ていないのである。

最初の渡来人はユダヤ人であった可能性

今一度、古代イスラエル民族であったユダヤ人について少し振り返るが、旧約聖書によればアダムとイブの時代から続く血脈はノアの時代に大きく分かれる。

ノアの子孫はセム(黄色人種)ハム(黒人種)ヤペテ(白人種)の3種族に分かれたとされている。

これはあくまでも旧約聖書に則ったものだが、ユダヤ人の祖先となるのはヤコブであり、ヤコブの先祖は(黄色人種)の祖先となったセムである。余談にはなるが、血統だけを考えれば、キリスト教の主であるイエスは黄色人種であったことになる。

実際に2004年にイギリスのBBCが調査した結果、当時の平均的なユダヤ人の特徴は少し浅黒く、背格好も低い人種であったことが再現されている。

そして古代イスラエルの民族は移動しながら、生活する知恵を持っていたことはアブラハムの時代から考えてもほぼ間違いない。そして、モーセに率いられてエジプトからカナンの地へ向かったことなども含めると、古代イスラエル民族は移動しながらの生活が文化になっていたと考えられる。

その後、アッシリアとバビロニア帝国によって捕虜にされたこともあったが、ユダ族を中心とした南ユダ王国のユダヤ人達は再びソロモン神殿を建てていることから、文化的なレベルも高度であった。

一方、エルサレムへ帰らなかった10支族は様々な土地を求めて分散したと考えられるが、地理や位置関係を考えると東に進んでいった可能性が非常に高いというのが日ユ同祖論の考え方である。

シルクロードを通ったと思われるユダヤ人達の存在は有名なマルコ・ポーロの東方見聞録にも記されており、中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた”という記述がある。

渡来人とは基本的には朝鮮半島や中国大陸から日本へ渡った人達の事を指すが、中国にユダヤ人社会が築かれていたのであれば、渡来人そのものがユダヤ人であった可能性は充分に考えられるのである。

タブーによって解明出来ない歴史

一方で、今も詳細の分からない大和朝廷の成り立ちや、その前後にあった文明を検証するには当時の王族の墓を研究する必要があるが、皇室に関わるという理由でこれらの墓への立ち入りや調査は宮内庁によって禁止されている。

また、以前紹介した八咫の鏡に刻まれたヘブライ語の真意もハッキリと解決は出来ない。

日ユ同祖論を考える上では、この渡来人が同化して現代の日本人の祖先になっているのかどうか、そしてその人種がユダヤ人であったかどうかは非常に重要なポイントではあるが、現在では状況証拠でしか語ることが出来ない。

それでも、数々の資料や研究者によって日本人とユダヤ人の共通性は多く取り上げられているのが事実であり、日ユ同祖論は決して妄想などの類ではないのである。

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